みえる安心の明日を照らす140年の歩み

復興をバネに。法人としての歩み

※敬称略

1945

社史再建への第一歩

終戦後の10月、七間町に二十坪弱のバラックを建て、当面の事務所とする。

1946

社史鏡の製造を再開

1948

社史株式会社村上開明堂 設立

法人改組により、株式会社村上開明堂を設立。
株式会社村上開明堂 設立

1950

社史宮本町新工場 完成

戦中・戦後と続いた板ガラスの配給制度が撤廃。爆発的に増加した需要に対応するため、最新鋭の設備と製法を備えた宮本町新工場を新設した。匠の技を継承しつつ、機械と化学を駆使した近代的な製法を構築していった。
宮本町新工場完成

1951

社史新しい販売分野への進出

ガラス、鏡製造の主力事業に続き、小売部門の充実も進められた。清水市(現静岡市清水区)にあった清水営業所を、鏡やガラス器のほか電気器具も扱う専門店に改装した他、七間町の小売店舗を二階建で新築。全国有数の大規模なガラス関係の小売店であった。
新しい販売分野への進出

1951

製品家電の卸販売・小売開始

昭和26年の民放ラジオ放送開始に伴って、ラジオ需要が拡大。昭和28年にはテレビ放送も始まり、民間の家電需要は大いに高まった。昭和30年にかけては電気洗濯機も加わり、販売部門は活況を呈した。
家電の卸販売・小売開始

1955

社史化成品分野への進出

社内に化成品課を発足。素材の取扱いだけでなく、当時は稀だったプラスチック素材の加工を行うメーカーとして、看板などの製作を手掛け、後のバックミラーなどの生産に欠かせない技術を培っていった。
化成品分野への進出

1957

社史初の研究所を設立

生産技術の習得、新製品の創出を目指し、研究部門を強化。宮本町の工場内に研究所を設立した。村上開明堂における、初の本格的な研究組織として、数多くの新技術・新製品を生み出す礎となる。
初の研究所を設立

1958

社史トヨタ自動車工業(株)(現トヨタ自動車(株))と取引開始

トヨタ自動車工業(株)(現トヨタ自動車(株))と取引開始

大戦の傷跡

太平洋戦争によるさまざまな統制で、極度の事業縮小を余儀なくされた開明堂。さらに昭和20年6月19日深夜の静岡空襲により、静岡市は灰じんに帰した。開明堂は、静岡大火から再建したばかりだった店舗はじめ、卸部営業所、宮本町工場と倉庫、多くの社宅を失い、三千余坪の敷地ががれきの山となる壊滅的な打撃を受けた。